1. “Afuera” (外)
わたしの生きる場所では、敵はわたし自身も含めた全てを包含するほどに巨大だ。この現実の先には何の希望もない。どうやってそれと戦う?システムの内側あるいは外側にはない。それに出口もないみたいだ。
自分ではなく別の敵がほしい
外部で戦うこと
脳から闘争を引きずり出すこと
包囲された体験が
爆発し現実へと出ること
外に闘争を持ち出すこと、外に!
戦うことで安心すること
そして危機が現実となること
外!
外!
外!
外!
[作者不詳のパンフレット“Beyond Amnesty”から翻案したテキスト]
2. “Pelea con capeza” (頭で戦え)
その全ての教義がきみの頭を遮断する
取り払え
疑いを持て
ぶっ壊せ
頭を自由にしろ
その全ての恐怖がきみの存在を窒息させる
取り払え
疑いを持て
ぶっ壊せ
頭を自由にしろ
その全ての規則が
一貫性を越えて溢れ出す
取り払え
疑いを持て
ぶっ壊せ
頭で戦え
3. “Periodista enemigo” (敵ジャーナリスト)
殺したのは愛していたからなのだ、もう一人殺せ
波のような移民のせいで鉄条網も致し方ないのである
おまえのその口は縫い閉じなきゃな
敵ジャーナリスト
危険と憂鬱は減らさなくてはならなかったのである
収監されたアナーキスト、つくられたテロリスト
おまえのその口は縫い閉じなきゃな
敵ジャーナリスト
4. “Etiquetas” (レッテル)
おまえのたわ言なんかどうでもいい
そんなのは古びていて錆びついている
わたしたちはおまえと同じなんだ
わたしは違いをおそれない
おまえの要求を是認したりしない
わたしはおまえと同じものを演奏している
わたしたちはガールズバンドじゃない
わたしたちはパンクバンドだ
おまえの貼るレッテルは気にくわない
わたしたちはパンクバンドだ
わたしたちは操り人形になりたくない
わたしたちは受け身の人形じゃないんだ
わたしはおまえと同じことを感じている
わたしたちはガールズバンドじゃない
わたしたちはパンクバンドだ
おまえの貼るレッテルは気にくわない
わたしたちはパンクバンドだ
5. “Ego” (エゴ)
おまえはずっと話している
おまえは自分の声に喜びを感じる
おまえの演説とその支持者たち
おまえを力に酔いしれさせる
他の者たちはただの耳でしかない
鏡として尽くさねばならない
おまえの聴衆はキャンバスだ
おまえはいくらでも言うことがある
静かにしてよく聞け
一度きりだからな
おまえは誰かよりも上じゃないんだ
わかったか!
おまえのエゴは全くお呼びじゃない
わたしたちは対等な関係で話し合う
いかなるリーダーにも付き従わないし
祭壇もいらないんだ
6. “Bastardos” (クソ野郎ども)
わたしたちは国家のカジノチップ
終わりのないゲームにおいて
屍の上に屍
わたしたちは対処しなくてはならない
この恐怖や疑念といったもの全てに
この権力のクソ野郎どもとの戦いの中で
宗教、国境、それはやつらの口実
日々わたしたちを虐殺するための
屍の上に屍
わたしたちは対処しなくてはならない
この恐怖や疑念といったもの全てに
この権力のクソ野郎どもとの戦いの中で
7. “Atrapada” (囚われる)
後ずさりしたからきみだとわたしにはわかった
将来的には暗い黒色のジャケットを着ることになるきみ
どのようにきみがわたしを窒息させるかに気付き、何を言えばいいかわからなかった
いつもきみはわたしを追いかけ、いつもわたしは逃げようとする
過去に囚われて
わたしはわたしになることができない
きみの影はとても長く、わたしは息をするために戦う
自分の過ちに思いを巡らしながらも、思い出すことへの不安
正面を向きたい、きみに対抗する武器を持ちたい
傷を縫いたい、きみを葬り去りたい、そして生きたい
過去に囚われて
わたしはわたしになることができない
<書きもぐら>
Troikaというパンクバンドが今年出したカセットに収録されている7曲の歌詞を翻訳してみました。
この3人組はスペインにあるマドリードを活動の拠点としており、まだ結成から1年と経っていない新しいグループとのこと。メンバーはそれぞれ他のバンドやプロジェクト、例えばRaw PawやAsinus、Accidenteなどに関わっております。
本人たちとしては特に何から影響を受けているとかはなんとも言えないらしく、あらかじめ具体的な音をイメージしてから曲に投影させているわけではないそうです。曲を聴いた印象としても、奇をてらうことなく自分たちの感情をストレートにぶつける、そんな実直かつ泥臭いパンクというかそういうふうな感じを受けました。それぞれの曲が1,2分程度ということで冗長さを感じることもなく、荒々しくロウなサウンドとともに吐き出される声々が合わさって力強く響きます。
その歌詞は、アナーキズム的アイデアが根幹にありつつ、自分のたちの内や外にある様々なものとの戦いに焦点を当てています。あまり遠回しな表現を用いない直接的な歌詞ということもあって、ひとつひとつの曲からこの人たちの視座や姿勢がより窺えるのではないかと思います。
ところで、RUIDO CHANDAL Y MANDANGAというファンジンにTroikaのインタビューが掲載されていまして、そこで4曲目の“Etiquetas”の歌詞に関して補足となるであろう回答がなされていましたので、それを踏まえて少し書いてみます。尚、そのファンジンはこちらでPDFファイルとしてフリーでダウンロードできるようになっています。
その曲のサビの部分では“No somos un grupo de chicas, somos un grupo de punk” (わたしたちは女の子のグループじゃない、わたしたちはパンクのグループだ)と歌われているように、この人たちは“Grupo de chicas”やそれに類するラベリングやカテゴライズをされることを望んでいません。日本語圏なら似たようなものとして“ガールズバンド”という表現とかがよく使われるかと思います。Troikaのメンバーはインタビュー内で、元々においてはこういった表現が悪意をもってなされるとは思わないとしつつ、まず一方で、いまだに不平等な社会の中ではそういった性別を反映することが必要になっており、他方においては、それは流行りの形容詞でありまるでポジティブな区別であるかのように使われているようだ、と話しています。そして、自分たちにお呼びがかかるのは、自分たちの為すことによってではなく、女の子であること、ある規定された性別を有していることが要因であるように感じることがあるのだと。しかし、これは音楽における女性の可視化に反対しているわけでないと語っており、シーンにおいて女性やトランス、また他のアイデンティティを有する人たちの参加や可視化を後押しするために多大な努力が払われていることをこの人たちはもちろん肯定的に捉えています。その上でまた、女性であることによって、またそうであるという理由のみで、自らのジェンダーやアイデンティティ形成、性的嗜好といったものを越えたところにある自分たちの姿勢には注意を払われないような現状もあるのだと。本人たち曰く、この曲は自分たちを反映するとても複雑な曲、ということです。そしてこの人たちが実際に感じている不満や不快な感情を表現しています。
さて、さらにここからまとまらない文章を書きますが、これはTroikaの見解や主張そのものとは関係ありませんのでその点について留意していただければと思います。
音楽にしろ政治的なものにしろ何らかの創作活動や表現活動などの場にアクセスする手段や機会を提示したり、または共有したいアイデアを伝搬する場合など、そこに何らかのとっかかりがあることによって受け手への到達が可能になることが実際においてあります。それゆえに自ら“ガールズバンド”と名乗るバンドもいますし、“女性の”や“女性のための”と銘打たれた活動も数多く存在します。そこから始まりそこで築かれるものがあるわけです。
一方で、自分たちの活動や取り組みに対して常に“女性の”や“ガール”という形容詞が付きまとう。女性であることが第一にフォーカスされることで様々な側面が見逃され、他の物事とのリンクが断たれる。似たような思想・姿勢・目的を持っていても同じ土俵に上がることがない。また、社会的に醸成された“あるべき女性像”を暗にあるいは明確に期待・要求され、その基準においてジャッジされる。もしもこういった形式が持ち込まれるなら、そういった役割を押し付けられるのなら、それに抑圧を感じる人たちは決して歓迎しないでしょう。
個々別々の状況やそれぞれの文脈や目的を伴った様々なアプローチがありえます。意図的であったり形式的であったり何の気なしであったり、その度合いも様々でしょう。それが社会的ヒエラルキーと抑圧を再生産することに繋がるのか、平等主義的で水平的な関係性の中でより自由を獲得していくことに繋がるのか、いずれにせよここではあらゆる場面について想定することはできません。
Troikaのいうようなやり方ならば、“ガールズバンド”という見出しを付けて話を進めたり最終的にその枠の中に回収したりするのではなく、“パンクバンド”というところから始めて、女性であるかどうかよりも、何をしているのかしていないのか、何を言っているのか言っていないのか、何を望んでいるのか望んでいないのか、それを見ること。これも特定のラベリングやカテゴライズの是非というより理解と配慮の問題だと思われます。また、誰しもが唯一の特徴をもつ唯一の存在であり、追求したいと望むものはそれぞれに異なっている、そういった認識を前提にする必要があるかもしれません。
ここにとりあえずの文章を載せはしましたが、そのときの状況、そのときの見方、そのときの言葉とともに形を変えるべきなのでしょう。